私の当たり前は、あなたの何に。-留学の折り返しver.1-
どうもどうも、
イッチーです。
長い間書くことお休みしていましたが、これからまた引き続き書いていこうと思います。
今回は、
【留学の折り返し地点での振り返り】を書こうと思います。
8月の中旬にフィンランドに来て、早五か月。。
留学の折り返しにきて感じることは、本当に数えだしたらきりがありません。もちろん、日本で大学生をした頃も同じように刺激的で自分が感化される瞬間がいくつも何回でもあったと思います。
ただ、その時のモノとは色が違う。
系統が違う。今回はそんな色の違う3つの点について綴ろうと思います。
・・・・それは
「当たり前は無い」
「変わらない>変わる」
「人」
という事です。
「当たり前は無い」
これは、フィンランドに来て、色々な人と関わっていく中で感じてきたことです。
大きく分けて2つあります。
1つ目は
自分が思っていることは、相手とは絶対にシンクロはしない。共鳴はしない。
当たり前はない、ということをまず実感しました。
これを裏付ける実験が1つあります。
プログラマー兼、アーティストのクレメント・ヴァラさんが被験者500人を対象に行った実験で、方法は至ってシンプル。
【前の人が書いた線をなぞる】
この実験の動画もあるので、興味のある人は見ていただきたいのですが、
1人目と500人目の線は大きく異なったものになってしまいました。ここからわかること。それは「伝えることの難しさ」です。例え、線だとしても。
ここで、1つ重要になってくるのが、「模倣させた線の模倣のしやすさ」になります。
曲線や難しい線なら、マネするのは難しいし、納得できます。もしかしたら課題が良くなかったのかもしれない。500人の中で、書くのが苦手な人もいる。そう予想することもできます。
ただ、今回提示された線。
それは【ただの直線】なのです。
まっすぐに書かれている。
それだけ、です。
2人目の模倣の歪みが大きいのは否めませんが、それでも最終的な形はそこに関係なくいびつになってしまっています。
こんなの書けて、当たり前。
話を分かりやすくするために究極的に話を単純化しますが、
簡単な物事を伝えるだけでも複数の人を介していくだけで、違うものが伝わる。
視点を変えれば、
複雑な物事はたとえ直接的に伝えたとしても、本当に伝わっているかどうかは分からない。
ということです。
他人は自分じゃない。
それは日本にいても分かっていました。
今回、感じたのはもっと深い部分です。
言い直すのなら
他人の育ってきた環境や過去は、自分の育ってきた環境や過去じゃない。
それは、絶対に交わることのない水と油のようなものだと思います。
相手の話を聞いて、自分が「理解したよ。分かったよ。」と感じたとしても、
それは表面上の分かった。でしかなく、相手の話の情報を基に自分の脳内で描いたイメージ(想像)でしかありません。この時にも、既に話し手の使える語彙やそこから予想できる自分の意味理解でしか想像ができません。
僕の好きなアーティストさんに「庶幾の唄」という歌があります。
【庶幾=こいねがうこと】。
普通に生活していたら、使わない言葉だと思います。この言葉を友達が知っていて、僕に使ったとしたら、文脈でおおよその意味を推測できたとしても、その時点で既に歪みがでてきてしまいます。
ヒトとヒトは異なるコトの方が多い。
その人の親も、親から授けてもらった遺伝形質も、着ている服も、使う言葉も、、、
何もかもが違います。同じ人なんでいない。絶対に交わることはない。時々刻々と変化していく他者の気持ちを”本当”に理解することはできないし、全部を理解することは無い。
「これは知っているから」
「これは簡単だから」
「これはさっき言ったことと似ているからみんな言わなくても分かる」
でも、だれかにとってはそうではないかもしれない。
当たり前に感じることは誰でもが感じるものでは無い。
つまり、当たり前は無い。
誰かにとって、そりゃそうだよ。一蹴されるような「この当たり前が無いという事」をこの留学で実感することができました。
実感しただけでなく、自分なりの解も見つけることができました。
完全に分かり合えなくても、理解できないわけでは無い。
「寄り添う」ことができる。理解しようとすることができる。
自分たちは違う生き方をしてきて、違うものを好きになって、違うものを大事にしていく。それを理解することはできます。そして寄り添うこともできます。
文化が違っても、生き方が違っても、分かり合おうとすることが重要で、大事なことなのではないかなと思います。
10,11月ごろ、自分は「日本」に関する様な範囲でしか生活していませんでした。
最初からそうというわけではなく、当初は異文化の人と接していこうと思っていました。
が、
ノリが合わない。何を考えているのか分からない。
最悪の場合、「怖い」。関わりたくないとも思ってしまうときも何回もありました。今となれば、それは自分が心の扉を固く閉ざしてしまっていたから。だと理解できます。それでは、いくら相手がオープンでも、仲良くなれるわけがない。うまくいくわけがない。そんな普通のことが分かりませんでした。
そんな時に、自分を立ち直らせてくれた詩があります。金子みすゞさんの『わたしと小鳥と鈴と』です。
みんなちがって、みんないい。
-金子みすゞ-
この詩の捉え方は十人十色だとは思いますが、その時私は
「違うことを認めることで、お互いの心の許容できる範囲は大きくなる。
自分の分からないを認め、相手のちがうを認める、分かち合うことが今の自分には必要なんだな」
と、強く思いました。
本当に周りの人に恵まれ、今では色んな人と交流しています。毎日が楽しいです。
互いを認めること
多様性が広がっていくこれからの社会で、どんどん必要になっていくコトなんだろうなとも同時に思います。
2つ目は、
近くにいる人や、同じようにみえていた毎日です。
これらが「当たり前ではない」と思いました。
現在、大学4年生を休学して、10ヶ月間の留学。帰国したら、3年間学び舎を共にした仲の良い同期がいません。また、その友達と卒業旅行や追いコンにも参加できない。
今まで簡単に会えていた距離や時間がグッと遠くなります。
それだけではなく、3ヶ月に1回くらいのペースで帰省していた家族とも会えない日が続きました。いつも一緒に家族と実家で過ごしていた年末年始も、今年はできません。
そう考えると、フッと我に返ったように日本に帰りたくなる時もあります。当たり前のように存在していた生活が、留学によって離れてみる事で貴重でかけがえのない、一日、一秒一瞬の積み重ねだったと実感できました。
逆に言い換えてみたら、今あるこの留学生活も「当たり前」ではありません。
今一緒にいる、留学仲間、現地の友達、ホストファミリーとも、頻繁に会えなくなる。毎日行っている大学のカフェにも行けなくなる。同じ生活ができなくなる。
そういうふうに考えると、今できることを今できる範囲で、毎日に感謝しながら実行していきたいなと、モチベーションをあげてくれる1つの要素にもなってくれます。
究極的に考えると、
今いる身近にいる大切な人。不自由なく幸せに動かせる身体。
全てのものはいつまでも同じではないんだなと感じます。
自分がこの「当たり前」にみえるコトに感謝して、それをできるだけ還元していけたら
良いなと思います。
今回は、「当たり前は無い」について書きました。
正直、書くのも迷うくらいじとっとした重く暗いような内容になってしまいましたがこれを見て、自分の尺度で、自分の言葉でイメージして、その中で何かを感じてもらえたら嬉しいです。より添えてもらえたら幸いです。
次回は「変わらない>変わる」を書いていこうと思います。
稚拙な長文、お読みいただきありがとうございました(^^)
それでは!
Moi moi!
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